あれこれ悩んで、あちらこちらと日記を移転している、2006年。
私の住む浜松で利用されているブログへと日記を移行することにした。
http://tomopr.hamazo.tv/
タイトルは相変わらず「砂喰う日々」である。
これは、劇団名からとったのだが、よく、砂喰社ってどういう意味ですか?
と、聞かれることがある。
劇団員がつくった詩の中から、生まれた名前なのだが、それもなんだからと
それぞれの言葉を調べてみた。
「砂」は、岩(地殻を形づくっている堅い物質)が風化した、小さな粒。
「喰らう」は、食べるは勿論だが、生活する、暮らすという意味もある。
「社」は、中国古代の地縁的結合社会を象徴する土地神。また、それをまつる場所。
これらの意味を構成するならば、
形づくっていたものが風化し、小さな粒となったものをを喰らって暮らす者達が結合する場、
とも言えるかな?
日々、生きていくのである。

本日のランチは、12月に控える公演の衣装の打ち合わせです。
自信といういうのは、経験の数に比例すると、私は思う。
最近、自信がない、自信がない、という若者と出会うことがあるが、何も経験してなきゃ当たり前だろうと思う。
経験と言っても、自信につながるものは字の如く、自分を信じられた経験である。
誰かに言われてとか、やらされた経験は、あまり自信を持てる経験、とは言えないだろう。
自信の持てた経験を振り返ってみると、小1の時に父親を亡くし、母親は聴覚障害者、その頃、父が発注されていた仕事の連絡を私が否応なしにしなくてはいけなかった。仕事のやりとりを小1がやる。やれるものである。
まあ、両親が障害者だから、何かと自分のことは自分でやらなくちゃいけなかったからな~。きっと人からは苦労したねえと言われる分、自分が自分を信じて行える経験にはなった。
そうそう、小2の時に、なぜか思い立って、母の勤める会社に行こうとした。
車で15分ぐらい、バスで20分の距離だった。
引っ越して1ヶ月ぐらいしか経ってなくて、地理もわからないのに、母に「バスの通り道だ」という情報を頼りに、40円を握り締め、バスに乗った。
ところが、バスに乗ってその会社のバス停までは70円かかる。当事、どこまでが40円で行けるとかいう知恵がなかった私は慌てて降りて、歩いて向かった。
道行く人に会社名を言っては「何処へ歩けば良い?」と聞き、ひたすら歩き、トンネルを越え、橋を渡り、1時間半かけてようやく辿りつき、母を驚かせようと思ったが、なんと会社は休み!泣きながら元来た道を歩いて帰ったのであった。
家に帰ると、どうやら母は法事か何かで親戚と出掛けていたのだ。
母に、歩いて会社まで行ったと話したら、かなり驚いていた。まあ、8歳の行動では・・・ないか?
しかし、それを機に「やればできる」という、自分への自信につながったのは言うまでもない。
そういう経験は一生の宝物である。
苦しくても、辛くても、自分を信じてやりきる経験、それを経なければ自信なんて生まれない。
若いうちの苦労は、買ってでもしろと言われるが、わかる気がする。
子どもが達成できる経験は、大人からみればちっぽけなものかもしれないけれど、大事なのはその経験から得るものなのだ。
それが、自信という預金に貯まっていくのだ。
そしてその引き出しを使って、次の経験への頭金にするのである。
先日、アメリカのフロリダ州に行った。
帰り、フロリダのタンパ空港から、シカゴ空港へ飛んだ。
昼間だったので、ずっと陸地を見ていた。
そして気がついたことは、ひたすら畑が広がっていた。いつまでも、いつまでも、いつまでも、いつまでも。
・・・山が無い。
日本は、海の水が蒸発して、山に雨が降り、山が水を浄水し、川の水となって、川から水道水を汲み取っているんだけど、アメリカってどうやって水を汲み取っているんだろう?地下水かな?
それにしても、最初から、平地だったんだろうか?
歴史はあまり詳しくないので、調べる必要はあるけれど、帰り、成田空港の上空も見えていたので眺めていたら、成田付近も田んぼや畑が多い。けれど、木や森、山がある。
日本は木の国なのかな?と思った。
杜の国なのか?
自分の人生で生きられる時間って決まっているということをふと考えると、長いようで短い感じがする。
だったら、嫌なことより、好きなことをやっていたいだろう、と思う。
私は、基本的に好きなことしかできない、という障害。
昔ある人に、好きなことがやれて良いね~と言われたことがあるのだが、私は逆に「嫌なことでもできるってスゴイですね」と言った。
それは真実である。
本当に嫌なことだったら、できないはずだから。
嫌だな~と思っても、やれてしまうのはスゴイことなのである。
私にはそういう才能がなかったのだ。
だからといって苦手なことをやるつもりはない。苦手なことをやり続けると自分のことが嫌いになってしまうから。
自分の好きなことをやって自分を好きになった方が、尚良いに決まっている。
短い時間の中だが、精一杯好きなことをやりきろうと思う。
与えられたものに、文句を言う人。
与えられたもので、考える人。
与えられたものでも、何かを得る人。
与えられたものから、創造できる人。
さて、それぞれのタイプは、どういう仕事ができるでしょう?
また、あなたはどのタイプ?
書こう、書こうと思って書けなかった、祖母のこと。
今年6月末、祖母が逝った。
95歳の大往生。
本番は、親の葬式でも出られないとよく演劇やってると言うのだが、私にもそういう時がきた。
本番と葬式が重なった。運良く、ソワレだったので、式には出席できた。祖母の姿を最後まで見届けることが出来た。
両親が障害者だったためか、祖母はよく私のことを気にしていた。
父が死んで、母と私を実家の近くに置こうとしたのも祖母だろうし、私が母にせがんだ自転車を買ってくれたのも祖母だったし、私の将来を考えくれていた。
祖母の意思を、叔母が代わりにしてくれてもいた。
やはり母の母であった。
祖父が4年前、同じ95歳で逝った。
大往生である。
とはいえ、歳を重ねて、祖父の面倒をみることが生きがいになっていた祖母としては、哀しい出来事であっただろう。
過疎化が進み、孫は全員、家から離れた。
祖父がいなくなって、ぽつんと一人。
仕事もままならない身体になって、デイサービスに通っても、祖母にとっては、祖父のいない生活であった。
「おじいちゃんが、早く逝ってしまったから・・・」
孫の私としては、祖父も十分、大往生だったと思うけどな・・・なんて。
祖母にとっては、祖父のいない生活だけにしかすぎない。
そして、自分が面倒を見てもらう立場になったにすぎない。
身体を悪くして、入院生活。
少し認知症になり、私の顔を見て、「今から晩御飯こさえる」と廊下に歩いた。
私はそれを受け入れた。きっと祖母には、実家の生活が見えていたからだ。
正直、私には別世界のように変わった祖母の生活を見ることがとても辛かった。
なかなか、病院に足を向けることができなかった。
ごめんなさい。
私には、病院での祖母の姿がとても痛々しかったのだ。
それから2年、亡くなる10日ほど前、叔母から「祖母に会っておくようにと、お医者さんから言われた」と電話。
怖かった。
なかなか、足を向けることができなかった。
そして従弟から「ばあちゃん、亡くなったで」という電話。
頭が真っ白になった。私は何もしてあげることはできなかった。
以前いた劇団で、女優の父親が危篤状態になり、彼女はずっと実家に帰ったままだった。
その時には、海外公演を控えていた。
経緯はわからないが、多分、戻るよう伝えたのだろう。
劇団の総会で
「父親の傍にいたい気持ちはわかるが、ずっと傍にいて、親は心配しないのか?お前には、大事な仕事がないのかと」
私はその言葉を聞いて、何故か納得してしまうものがあった。
親は大抵、子どもより先に行ってしまう。それが自然の摂理である。
だからこそ、子どもが自分の生活投げ打ってまでその死に立ち続けるのは、親の望みではない。
子どもは次の世代を担わなくてはいけないのだ。
祖母の知らせを聞いたその日、出演者と海に行く約束をしていた。
声量と世界観を広げるために、海で叫ぼうと。
私はあえて、祖母の死に立ち会わず、海へ出かけた。
祖母は、愛する祖父の元に、行ったのだ。ずっと寄り添ってきた、祖父の元へ4年ぶりに。
私は海に向かって叫んだ。
私の好きなTHE BOOMの「島唄」のごとく、届けておくれ私の涙、そして愛。
今度出演する、若い女の子二人と、叫んだ。
気がつくと、自分は空っぽになっていた。そして大きな愛を得ていたと思う。
翌日、通夜と葬式に出席することができた。
通夜では、祖母に足袋を履かせ、無事に祖父の元へ旅立つことを願った。
ありがとう、おばあちゃん。
たくさんの子どもたちを育て上げ、私たちの命につなげてくれてありがとう。
おじいちゃんと仲良く、ゆっくり休んでください。
母のすぐ下の妹である叔母が、「お母さん、もう病院で寝なくて良いからね」という言葉に涙した。
通夜の夜中、従弟がいびきを書いている最中、おばあちゃんから声がした。
「交子、やえちゃんのこと、頼むね」と。
祖母にとってはずっと、母が気がかりだったのだろう。
私には何が出来るかわからないけど、母が元気なうちは、精一杯、母の人生を生きてもらいたい。
母には母の意志があるし、私には私の意思がある。
バランスのとれる範囲で。
歳をとったせいか母は私をあてにする。
でも私がイジメで苦しかった時、進路に迷った時、私は母をあてにすることは出来なかった。
経済的に支えてもらい、好き放題やらせていただいたが、精神的にあてにすることは出来なかった。
お陰で、一生かけて続けるものが見つかった。
人生は人に頼ることは最終手段、まずは自分で精神的に立てるようになること。
私にそれを与えた母には、ぜひ、そうなってもらいたいと願う。
祖父母が次世代へとバトンタッチし、様々なものが整理されるであろう。
私はただそこに、祖母の孫として、歩き続けようと思う。
今になって、もう祖母はいないのだとこみ上げてくる。
祖母には多くを支えてもらった。ありがとう。
いつまでも、祖父と幸せに。
私も、いい人生を歩んで行こうと思う。
最近、思うことがたくさんあるから、きっと本当は日記に記しておいたほうが良いのだろうが、隠したいことも山ほどあるから、書けない。
人間は多くを隠しているものなのかもしれない。
ただ言えることは、他人の隠していることを見つけて、何かを考えることが多いと言うことだ。
だから、公開された日記に書けない。悔しい。
そこには恐るべき発見が山ほどあるのにな。
最近、人をよく観察するようになった。
この人は今、どんな状態なのかな?とじっとみる。
面白い話に反応する人。
自己啓発的な話に反応する人。
人の悪口に反応する人。
悲しい事件に反応する人。
その人の状態が、よくわかる。
エイブル・アートの播磨さんが、「悲観は性格、楽観は哲学」と
言っていた。
その通りだと思う。
この前、久しぶりにニュースを見ていたら、怖くて見てられない。
先日の北朝鮮のミサイル事件も、情報を引っ張り出せば、
どこでも、もちろん日本だってやっている軍事訓練らしい。
あの過剰な敏感さはなんだ?
危険な環境をつくっているのは誰だ?
9月に「心の病って?」という、上映会と講演会を行う。
会場は、浜松市情報センター。
心の病の真実を、知ってもらいたい。
常々思うのだが、どうやら人間嫌いというより、
人間怖い、という人が増えてるんじゃないか?
競争社会の賜物とも呼べるのだろうが。
人間の能力を最大限に引き出す方法を知ると、
実は誤った競争社会が、いや勉強の方法が、人への恐怖を
煽り立てているのだと思う。
何はともあれ、人は誰しもすばらしい能力を持っている。
それを引き出す方法を知り、生存能力を高めるのだ。
科学は進歩しているが、人間が最も進歩していないのかもしれない。
時は急いでいるのに。
ここのところ、毎日、劇団のメーリングリストが盛り上がっている。
たわいのない会話なのだろうが、「つながっていたい」という感情かな?
先日の公演が終わって、それぞれがそれぞれの場で仕事をしている。
同じ空の下で、仲間がいるんだって感じ。
それを味わいたい仲間なんだろうな。
仲間・・・一緒に物事をする間柄
今日、利賀でやりたい作品の候補が挙がった。
3月公演は、1960年安保。
その台本の作者は、1970年安保で戦った人。
最近、文化に親しむ人はどれくらいいるのだろう?
人をいじめて笑うバラエティ番組は、見る気もしない。
しかしどうだろうか?
良いものを見ようと文化を親しむ人はどれくらいいるのだろう?
自分より程度の低いものをわざわざ選んで、批評家ぶる?
程度が低くても、そこから何かを学ぼうとする人はどれくらいいるのだろう?
学生時代に使えない勉強のしすぎで、勉強する気がなくなったか?
そこに留まって、成長しようとしない?
つまらない人生だな。
3月公演と、利賀に選んでいる作家は、憤りの中、何かを獲得しようとしていた。
生きるとは何か?人生とは何か?を常に問うてきた作家。
戦後、失ってきたものを見つめてみたいと思う。
そして利賀に挑戦するために必要な条件、それは
集団をつくることであった。
劇団を確立してから、出向こうと思った。
今はまだ、第一歩である。
今回のロングラン公演で、ひとつ、石垣を築いた気がする。
3月公演で、またひとつ、石垣を築こうと思う。
そして次回の挑戦では、胸のはれる作品を創ろうと思う。